死んだ方がマシじゃ無かった話

「死んだ方がマシじゃ無かった話」




今年の7月半ば、謎の高熱が続き救急搬送された僕は、看護師の口から出た信じられない言葉を耳にする。




「この症状は髄膜炎という病気で、免疫が下がっている時にかかりやすく、死亡例や後遺症として障がいが残る例も少なくないですね。」




何を言ってるんだこいつは、と思った。

突然の死ぬかも宣告に頭が真っ白になった。




結局、髄膜炎の検査をしないまま熱が引いたため、高熱の原因は分からなかった。

だが、おそらく髄膜炎は看護師達による誤診で、過度なストレスによる心因性発熱というものと、過労による発熱が合わさったものだったのではないかと思う。



では、40度の熱が数日続くほど何に悩まされたのか。何を頑張っていたのか。それは就職活動だった。僕は就活に命を賭けていた。就活で失敗するくらいなら、死んだ方がマシだと本気で思っていたのだ。



なぜ、そこまで重く考えるようになったのか。




話は中学3年まで遡る。

大の勉強嫌いで部活や遊びにばかり耽っていた僕も、高校受験のために塾へ通うことになった。



厳しくて有名な地元の塾に通うことになったが、成績順に分かれる3クラスのなかで真ん中のクラスに所属したため、面白い男や可愛い女の子が多く、和気藹々とした雰囲気のなかロクに勉強もせずに塾を楽しんでいた。


家の近くにある頭の悪い高校に行ければ良いと思っていた。


しかし、小6の時に何となく受けた中学受験模試の成績が、今では想像できないほど良かったということをひょんなことから知った僕は、自分の地頭の良さを信じ、勉強してみることにした。



すると、瞬く間に真ん中のクラス内で1位になった。自分が天才であると確信してしまった当時の愚かな僕は、塾長の勧めで1番上のクラス(Kクラス)に所属を変えることにした。


しかし、そこからが地獄だった。Kクラスでは、同じ先生達とは思えないほど授業中は厳しく、生徒の雰囲気も常にピリピリしており、休み時間ですら話し声など聞こえず、みんな勉強していたのだ。




サボり癖があり、もともと勉強が大嫌いな僕は、毎日の予習復習など出来るわけもなく、常に全ての授業で槍玉に挙げられて叱られるようになった。



先生だけならまだしも、生徒達も僕が怒られているときに深い溜息をついたり、音を出して貧乏ゆすりをするようになった。


次第にクラスの生徒全員からゴミを見るような目で見られるようになり、僕は塾に行かなくなった。


Kクラスの生徒達は、ほぼ全員が学区(地方の人間は学費が安いという理由でみんな公立高校を目指す、公立高校は地元にある高校にしか進学できない学区という制度がある)で1番の高校に進学したそうだ。




結局、成績も全く伸びず、また、通知表の問題もあり(公立高校の場合、中学校の内申点が高くないと偏差値の高い高校は落とされる)僕は女の子が多く校則が緩いと噂の、偏差値の高くない自称進学校に進学することにした。




高1高2とダラダラと過ごしたが、Kクラスの生徒達からの目や、塾講師達から投げつけられた暴言を忘れることはなかった。(お前は絶対に人生失敗する、受ける高校全部落ちろ など)




ビリギャルに影響され、高2の末から受験勉強を始めた僕は、自分の所属する高校の教育の質の悪さを思い知った。


その時ばかりは、Kクラスだった奴らが通う高校を羨ましく思った。


常に中学時代のことを思い浮かべながら、あいつらよりも良い大学に行こうと、学校を休み、毎日十数時間の勉強に励んだ。


晴れて早稲田に受かった。Kクラスの奴らの誰の進学先よりも、難易度の高い大学だった。



そのとき、性格の悪い僕は、中学時代もコツコツ勉強しつづけ、良質な教育が受けられる高校に行っても、大学受験で俺なんかに逆転されては、なんのために今まで勉強ばかりしてたんだと、心底彼らを見下した。




また、それと同時に、自分も大学受験だけの人間であってはならないと考えた。

僕が高3の時通った塾の先生(谷森)は、東大卒だった。給料は300万程度だそうで、周りの先生からは、勉強だけできても頭は良くないからなあ(笑)などと陰口を叩かれていた。




谷森はいつも、学歴があるからと安心をして就活をしなかったらこうなってしまった、と言っていた。

僕も、学歴に甘んじて就職に失敗すれば、大学受験の努力は無駄になり、僕のことを嫌う人達から見下されるのではないか、せっかく早稲田に行ったのに就職はダメだったらしいと陰口を叩かれるのではないか、と考えた。


大学入学当初から、地元の人間の誰にも負けない企業に就こうと決めていた。




しかし、意志の弱さは相変わらずであるので、僕は大学1年と2年のほとんどを、遊び呆けて終えた。




大学2年の終わりに、とりあえず何か行動しようと思い、難関企業への就職を目指す少人数勉強会に参加した。


学生は5人いたが、僕を除いた4人のうち3人が東大理系院生、1人が東大文系学部生であった。そんなヤバイ会だとは知る由もなかった僕は、香水プンプンで会場に入ってしまい、早々に冷ややかな目を向けられた。




東大生達はみんな外資系を目指しているそうで、外資系企業出身の社員2人を囲み、彼らは矢継ぎ早に質問を繰り返す。

何の知識もない僕は彼らのやり取りから出てくる言葉を全く理解できなかった。(IBD、GS、BCG、MS、など)




その後僕も社員に志望業界を聞かれ、「まだよく分からないがなんとなく日系大手」と答えた僕に向けられた東大生達の目は、中学時代の塾を思い出させた。(外資系志望者向けの勉強会だったので、今考えると仕方ないのかもしれない)

本気でムカついた。




それまでは、地元の知り合いなどに馬鹿にされない程度の、そこそこの企業を目指そうと考えていた。しかしその日から僕は、コイツら(東大理系院生)に勝る企業に行こうと決意する。




勉強会で外資系企業出身の社員は、「僕は早稲田の商学部で、これといって面接でのアピールポイントもなかったけど、サマーインターン外資をたくさん受けて運よくいくつか通ったから、それで優秀だと思われて本選考も良いところに行けたんだと思う」と言っていた。



その人は40社もESを書いて選考を受けたという。それには流石に東大生達も驚いていた。




とりあえず数で勝てばなんとかなると思った僕は、サマーインターンで100社ESを出すことを目標にした。SPIなどの筆記試験対策と、サークルの新歓などと並行して、結局110社出した。




最初は、リクルートビズリーチコロプラなどの、給料が数万円出るタイプのインターンに応募するものの、見事に全て途中で落ちた。


その時は周りも落ちていたし、高い給料を出すのなら本気で優秀なヤツしか採らないだろうとも思っていたし、周りを見ても就活を始めていないひとが大半で、まだ心に余裕があった。




6月1日になり、多くの企業がインターンの応募を開始した。その頃になると、今までやっていなかった人たちも就活を始め、僕と同じ時期から就活を始めていた友人たちは、ベンチャーやメガベンチャーへのサマーインターン参加がちらほら決まり始めた。




僕は110社出したとは言っても、外資系超大手のサマーを決めてこそという考えがあったので、ベンチャーや日系と外資の日程が被った時は、外資を優先していた。(6月1日までに結果が出たものは全て見事に玉砕した)




6月の半ばにもなると1dayインターンはいくつか決まったものの、複数日のインターンが未だにひとつも決まっていないことは、かなりのプレッシャーになった。



それに、周りがベンチャー企業の選考でグループディスカッションや面接の経験を多く積んで成長していくなか、僕だけが戦略コンサルや外資投資銀行ばかりを受け、ES落ちや筆記試験落ちばかりが続いていて、成長を全く感じられなかった。




心底焦った僕は、今まで以上に自分を追い込まれ、(病んでいただけで大したことはしてない)睡眠時間は少なくなっていった。




身体的にも精神的にも限界だったが、IBMPwCの複数日のインターンは確実に受かっていると踏んでいたので、それらの結果が出るまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、なんとか踏ん張っていた。



それから少しずつ、戦略コンサルのESが通ったり、外資投資銀行の筆記試験に通るようになったりと、それなりに進歩も見られた。




そして7月12日、PwCIBMの両方から不合格通知が届いた。

PwCに至っては、合格基準は満たしていたが、参加希望者が多いからサマーインターンには呼べないという意味不明な舐めくさったメールが来た。ついでに森ビルも落ちた。



よく考えれば確実に進歩もあったのだが、不幸があるとそっちばかりに目がいってしまう僕は、肉体的にも精神的にも完全に限界をむかえ、朝まで外でかりゆし58BUMP OF CHICKENを聴きながら地べたに座り込んで号泣した。




翌日、2時間ほどの睡眠で企業の1dayワークショップに参加した僕は、グループワークで手足と声が震え続ける、カーナビのPVを観て1人だけ泣く、などかなり体調がおかしいことに気づく。帰って熱を測ると40度あり、それが数日続いて救急搬送されることになる。




結局過労とストレスによる発熱だったわけだが、誤診により死を覚悟し、家でスマホのメモに遺書を書きながら思ったのは、なんで就活なんかで髄膜炎になって死なねばならんのだ、ということだった。




就活に失敗し、周りの人間に見下されるくらいなら死んだほうがマシという考えは、間違っていた。本当に死ぬかもしれないと思ったからこそ、間違っていたと気づけた。




そもそも、中学時代のコンプレックスをいつまでも引きずっていることがヤバイのだ。ルサンチマンを行動の原動力にしている限りは、いつまで経っても幸せになれないと思う。




これから体調を整えて、就職活動は再開するが、今度はダメならダメで良いくらいのゆるい心持ちで、自分のペースでやってみようと思う。



おしまい



以上「死んだ方がマシじゃ無かった話」